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狭山教会は1989年に創立された 約30年の歴史をもつ プロテスタントの教会です。1989年に 狭山市で 開拓伝道をはじめ、現在 約20名の教会員が おります。創立以来、この地にあって イエス・キリストの愛と福音を 伝え続けています。礼拝、祈祷会、その他の集会など、お子さまから大人まで、どなたでもお気軽にお越しください。



次回礼拝
降誕節第6主日礼拝
2月1日(日)10:30
説教「信仰の行い」 中田正道牧師
聖書「ヨハネによる福音書 12章1-11」


2025年8月3日(日)礼拝
説教「イエスを求める」 中田正道牧師
聖書「ヨハネによる福音書 7章32-36

本日は平和主日(聖日)です。各地の教会で世界の平和を願って礼拝が守られています。第2世界戦争が終って80年が過ぎました。しかし、この間、世界のどこかでは、戦争や紛争があり、数えきれない多くの人々が犠牲となりました。そして、いまでも世界が戦争で揺れ動いています。私たちは世界の小さい人、弱い人の平和を願っています。大国の思惑と権力の支配の平和を私たちは望んでいません。弱さを共有し合うことによる平和を願っています。これが神とイエスの願っている平和だからです。

今日の聖書箇所では、イエスが逮捕されそうになるところから話が始まっています。32節「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」とあります。ここでイエスの十字架への道が一段と色濃くなってきました。祭司長たちとファリサイ派の人たちは、イエスを事情聴取をしようとして下役たちを遣わしたのです。ここの聖書の箇所の主題は、イエスのことを「捜す」です。34節と36節に「捜す」という言葉が出てきます。日本語の「さがす」には、二種類の漢字を当てはめることができます。「捜す」と「探す」です。元の言葉で違いがありません。しかし、どうしてその違いを訳者は使い分けたのでしょうか。「捜す」という方は、ヨハネによる福音書において34回も使われています。しかも7章だけで9回も用いられていて、今日の箇所では2回出てきます。行方不明の人を捜索するという場合の時などは、「捜す」を使います。すでに知っている人を捜すことになります。知っているイエスを「捜す」のです。一方、「探す」は真理を探究するなどの時に「探す」を使い、未知なものを探すというように使います。たとえば、マタイ福音書7章7節では「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とあります。ここでは「探す」の漢字が使われています。

そして、ヨハネによる福音書7章11節にはこうあります。「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた。」とありました。ここでは、やはり「捜す」という方が使われています。

そして、「さがす」という言葉には、「捜す」と「探す」と同じ意味を持つ言葉に「求める」があります。この「求める」は、ヨハネ7章18節に「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」とあります。ここには「さがす」という日本語の言葉はありませんが、「求める」という言葉があります。実は、この「求める」という言葉が「さがす」という言葉なのです。つまり、「自分勝手に話す者は、自分の栄光を『さがす』しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を『さがす』者は真実な人であり、その人には不義がない。」ということになります。

そして、今日の7章34節と36節で同じ言葉「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」と繰り返されています。日本語への翻訳の仕方は様々なのですが、元の言葉の意味としては、「捜索する」「探究する」「求める」という意味です。いずれにしても追い求めることの意味なのです。この場合の「捜す」とは、イエスのことを捜すことですが、私たちは、きちんとイエスのことを「探し」だし、イエスに「求める」ことができるでしょうか。私たちは聖書の中に、キリスト教関係書物に、そして信仰の友から伝えられ、教えられることによってイエスを「求める」ことができるのです。

さて、詩編には全部で150の詩が収められています。詩であり、歌であり、祈りの言葉です。150の歌の中で、嘆きの歌が一番多いといわれています。嘆くことがあるから、歌が生まれ、祈りが生まれると言うこともできます。

そして、旧約聖書に「哀歌」という書物があります。預言者エレミヤの頃は、バビロン捕囚期でありました。エルサレムの都が破壊されてしまい、国の主だった人たちがバビロンへと連れて行かれてしまう。その後のエルサレムの荒廃ぶりを歌った歌が哀歌なのです。神さま、なぜこのようなことが起こるのですか、悲惨な生活を強いられている私たちをしっかりご覧になってください。そのように嘆き続け、最後はこのように哀歌が歌われ、閉じられます。つまり聖書の神さまは、私たちにきちんと嘆く場を与えてくださるということが記されているのです。このような悲惨なことが起こるときに、神がおられないのではありません。むしろ神が黙っていてくださって、私たちの嘆きに耳を傾けていてくださり、常に傍らにいて、慰めてくださることを信じて歩むように勧められるのです。

私たちの現実の社会で、戦時下の中で、悲しいことは悲しいのです。しかし、神はきちんと私たちの嘆きを嘆かせてくださいます。そして、しっかりと聴いてくださるのです。そのような祈りの時を与えくださるのです。そして、あのイエスも十字架のうえでしっかりと嘆き、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。そのことが私たちの平安となっているのです。即ち、嘆きを讃美へと変えてくださることの意味となるのです。いま、世界が戦争の渦に巻き込まれています。ガザでは6万人を超える死者があり、飢餓状況にあり、子どもたちと女性たちが命を守る闘いをしています。今なお、人々が救い主を捜して、声にならない声で嘆かれています。その嘆きに真摯に神は応えられると信じます。イエスが教えられたマタイによる福音書5章4節の「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という逆説のイエスの言葉から、私たちは真の救い主を求めて生きたいと思います。その救い主イエスこそが、私たちの嘆きを喜びへと変えてくださると信じて歩みたいものです。世界の平和を祈ります。




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