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狭山教会は1989年に創立された 約30年の歴史をもつ プロテスタントの教会です。1989年に 狭山市で 開拓伝道をはじめ、現在 約20名の教会員が おります。創立以来、この地にあって イエス・キリストの愛と福音を 伝え続けています。礼拝、祈祷会、その他の集会など、お子さまから大人まで、どなたでもお気軽にお越しください。



次回礼拝
復活前第5主日・受難節第2主日
3月16日(日)10:30
説教「救い主がわかったから」 中田正道牧師
聖書「ヨハネによる福音書 4章39-42」


2024年11月24日(日)礼拝
説教「言は肉となり我らに宿る」 中田正道牧師
聖書「ヨハネによる福音書 1章14-18」

1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。ここに「肉となって」と記されている。ヨハネはイエスの誕生と復活を「言が肉となった」(14)と表現している。そして、言というのは神の真理、道、理性を意味するものであり、それに対して肉というのは、この世である。私たちの現実であり、罪深い社会そのものである。ですから言と肉は本来一致するものではなく、相反し、対立するものと考えられている。しかし、同時に私たちの暮らす社会では、喜びと悲しみ、平安と不安、光と闇のように同居するものでもあるため、その区別がはっきりつかないのも私たちの現実社会である。パウロはローマの信徒への手紙7章18節で自分を「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。」と告白している。自分のうちにある弱さを告白している。私たちも同じように、自分の肉の弱さをもっている。例えば、私たちは年を重ねてきますと、肉体の衰えを自覚する。しかし、それに抗おうとするのも私たちでもある。いくら頑張ろうとしても肉体の弱さからくる心の弱さも生じるのが私たちである。それがゆえに心身に苦痛を感じ、それらが同居する。

さて、イエスが生まれたことを、ヨハネ福音書の記者は「言は肉となって」と言う。つまり、イエスは肉を取って、見える形になったと言い、これを「受肉」と言う。肉を受ける、肉を受け取る、肉を受け入れるとの意味で、イエスが人間の弱さの象徴である肉を受け入れられたことを表している。まさにイエスは人間として生まれてきたと言う。そして、肉の弱さをもっている私たちのもとにきて、痛みと苦しみを味わい、励まされる。各福音書を読むことによって、私たちにイエスが貧しい人々や差別され、みくだされている人々と共に歩み、そして、イエスが支配者たちから疎んじられて、苦しみに遭い、十字架につけられて死なれたことを伝えられている。苦しみと悲しみにある私たちの友となってくれたことこそが、「言は肉となって」ということなのだろう。私たちがこの世を生きる中で、たくさんの問題を抱えて生きていかなければならない。善悪の問題、戦争の問題、社会の問題、経済の問題、健康の問題、家庭の問題等々、たくさん問題に直面し、苦しむ私たちである。そんな私たちのところに、人間イエスとして、私たちの痛みと苦しみのわかる方として、実際に傷んでくださった方として、私たちのところに来てくれた。

そして、「わたしたちの間に宿られた。」とある。「宿った」とは、「天幕を張る。幕屋に住む」の意味があり、神が住まう場所である。従って「宿られた」は、インマヌエル、神は我らと共におられるの意味である。イエスは、地上に天幕を張るような姿で、私たちの間に来られたことを表している。イエスは、天高くにいるのではなく、私たちと共にいる。どんなに暗く、絶望のどん底におかれていてもイエス・キリストにつながる時には、私たちの暗闇の世に光が現れるのである。イエス・キリストがわたしたちを力強く励まし、勇気づけられることに目を向けたい。自分たちを押し流してしまうような、荒波が打ち寄せ、飲み込まれようとしたとしても恐れることはない。イエス・キリストが担ってくれるのだから、そこには私たちの平安があることを信じていきたい。




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